0004/巻頭言

書いた人
大中浩行(せとあずさ♂)(@setoazusa)

TDDBC大阪(1.0/2.0)から1週間、「ぺけま」第4号をお届けする。 今号は、ぺけま初登場@pocketberserkerさんがSpockでTDDに挑む過程を収録した「TDD 序破 Q」と、1号からの連載記事「xUTP Topics: 第三回 xUnit Test Patterns の世界観「テストコードの不吉な臭い」の2本立てとなった。


「想像の共同体」という書籍がある。この書籍は18世紀から19世紀にかけての国民国家共同体とナショナリズムの形成について資本主義経済と情報技術の発展が果たした役割について論じたものだが、我が国での1990年代から2000年代前半にかけてのコミュニティやネットワーク形成を巡る議論にも大きな影響を与えた文献である。

この本の著者ベネディクト・アンダーソンは「国民はイメージとして心の中に想像されたものである」と言う。つまり、共同体としてのコミュニティは、想像され、マスメディアを介してその像が共有されたところに実体があるというのである。

この主張が我が国のコミュニティを巡る議論に受け入れられやすかったのは、コミュニティが「想像される」という概念が、CMCを媒体として形成されるコミュニティやNPOやボランティア団体のような課題解決のためのコミュニティの実体を考えるうえで親和性が高かったからである。であるが、コミュニティの運営を巡るうえで、それを支える十分な思考的枠組みが確立され、提供されているとは言い難い。

この「ぺけま」の編集であるとか、TDD Boot Camp (TDDBC) の運営基盤がコミュニティであることは議論の余地がない。だが、コミュニティがどのように意志決定し、どのように外部と関わりを持ち、個人はコミュニティとどのように関わるのか、という点について唯一無二の解はない。

コミュニティの原動力の一つとして、一つのテーマに対する個人個人の熱意によるコミュニケーションの盛り上がりを挙げることが出来るだろう。だが、そのような盛り上がりは、コミュニケーションの中にいない人達を排他するような働きと表裏一体であり、コミュニティを盛り上げる力であるとともに、コミュニティを衰えさせる力でもある。

実際、長くコミュニティを継続することの出来ている関係者は、コミュニティを盛り上げるようなコアなテーマを維持するとともに、その輪に対して人が出入りしやすいような、一種の「遊び」を持たせるスキルに長けていると、筆者は感じている。そのようなスキルを持つ人々を増やしていくことが出来れば、コミュニティが、個人個人が持つ課題に対してソリューションを提供できるようにもなるだろうし、企業も、個人のやりたいことを尊重できるような組織に少しづつ変わっていけるのではないかと考えている。

そしてもう一つ、コミュニティが何かという問いに付随して浮かんでくるのは、「自分が何であるか」ということだ。会社員の場合、「自分が○○社の従業員である」というのは、組織としての国家が法律で認めた関係であり、そしてその会社が法人として権利能力を有しているというのは、疑いを挟む余地はない。だがコミュニティが何であるかというのは、多くの場合、「自分がコミュニティにどう関わるのか」という問いに跳ね返ってくるのだ。そこにコミュニティがある。

実際のところ、自分の言いたかったことは、るびま編集長の高橋征義氏の 「あなたのような人々の集まりを、コミュニティと呼ぶのだ。」という言葉に集約されているので、そちらも是非一読いただきたい。

Last modified:2024/04/26 04:42:10
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References:[xUTP Magazine 0004号] [ぺけま] [SideMenu]

*1 ベネディクト・アンダーソン (著), 白石隆 白石さや (訳) 定本想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 http://www.amazon.co.jp/dp/4904701089/

*2 Computer-Mediated Communication. コンピュータを媒介して成されるコミュニケーションを指す学術用語。